大森靖子は、自分の表現の外側にある感傷的な言葉を紡ぎ、襲ってくる。自分はどんなに捻り出しても出てこない、生々しい、血みどろの表現。
「こんなの…はじめて バカばっかておもってるんでしょ
こういうのがしたくてせんせいになったって女子のなかで噂だよ
まあ、その噂流したの私だし
困ってる顔がだいすきだいすきだいすき
だいすきだいすきだいすきだいすき
…傷ついてよ。」(子供じゃないもん17)
私は、大森靖子にはなれない。
そんなふうにずっと思っていた。
ただ、最近気づいたことがある。「自分は自分が思っているよりも、繊細である」ということだ。
思っている、というよりは自分で自分に思い込もうとしていた、という表現の方が正しいのかもしれない。私はある時から、繊細であることが怖くなり、感情を表現するのが苦手になった。繊細さから逃げた先にあるのは俯瞰だ。繊細さはいつまで経っても消えず、小さな木陰に隠れながら「俯瞰モード」によって他者を見渡す。次第に俯瞰モードは外界の揺らぎを遮断する。そして周りのことなどどうでも良くなる。
中学あたりから、親族の集まりに行ったことはない。身近で、似たような種たちの内面を見るのが嫌なのだ。繊細だった自分を見ているようで。それでいて外では壮大な社会について話し始める。
私は繊細さを忘れてしまっていたのだ。繊細さに陥ってしまった芥川になることを恐れず、繊細さと正面で向き合って、格好良く着飾ろうとする三島になるべきなのだ。
みんなとのカラオケでは美しくて強い椎名林檎を歌う。けれど、たまに1人で「みっくすじゅーす」を口ずさんで浸ってしまう、そんな人間でありたい。